10月5日、愛知芸術文化センター12階アートスペースHにて、パブリック・プログラムのスポットライト「ダン・ペルジョヴスキ」を開催しました。ペルジョヴスキは、同センター11階展望回廊の窓ガラスに77mにおよぶ大規模なドローイングを描いたアーティスト。1990年代以降ルーマニアの現代美術を牽引しながら、世界の名だたる美術館や国際展で作品を発表してきました。
あいちトリエンナーレ2013への参加を機に初来日したペルジョヴスキは、私たち日本人にはなじみが薄いルーマニアについて、また1989年を境に一変したその社会体制とそれに伴って東欧にもたらされた現代美術の受容について、これまでの活動紹介を交えて話しました。
■抽象によるグローバル化とパブリックの獲得
まずは、同郷の国民的芸術家コンスタンティン・ブランクーシの彫刻作品を紹介。接吻するふたりの人物像の抽象彫刻...しかし、それは中国のどこかの公園に設置された贋作。圧倒的な普遍性をもつ作品が異国で勝手に二次創作され、パブリックスペースに現れてしまうこともルーマニアが国際化を果たした一例だとして、トークはペルジョヴスキ風のジョークから始まりました。ですが事実、ブランクーシはペルジョヴスキにとっても偉大な作家のひとりだったようです。ペルジョヴスキのドローイングもまた、ともすれば複雑な問題が背景に潜む状況をあえてシンプルに表すことにより、その視覚言語は普遍性をもち、世界各国で共感を得ています。
■自由が翼をもった年
この世界に通じる手法に至る転機となったのが、1989年のルーマニア革命です。
食料や本、あるいは個人の思想などあらゆるものを規制し、自国のすべての可能性を奪っていたチャウシェスク独裁政権が崩壊しました。
「1989」は、ベルリンの壁崩壊、アパルトヘイト撤廃への動き、天安門事件などが起こった、作家のことばでいうと「自由が翼を得て羽ばたいた年」でした。しかし一方で、これまで憎んでいた敵がいなくなったとき、「新しい歴史(未来)を自分で考えなければいけなくなった」のです。激動の転換期を経験したペルジョヴスキは、同時に、今まで閉ざされていた世界へと一気に開かれ、その創作も変化しました。
■自由であることの代償
ペルジョヴスキには美術学校で12年間アカデミックな絵画を学んできた経歴があります。しかし、革命を実現したのは絵画ではなく人間の身体であり、アートがもっと早く現実に呼応しなければいけないと気がつきました。そこで、ナショナリズムではなく国に傷つけられた痕跡として、自傷的に「ルーマニア」というタトゥーを腕に刻む政治的なパフォーマンスをしたり(国が十分に民主化したとして2003年にレーザーで消去)、言論の自由を手にした新聞に風刺画を寄せ始めたりしました。西洋の膨大な情報に晒され、その世界へ飛びたとうとするとき、ドローイングは絵画よりも機敏性がありました。自らの身体とペン1本で、どこにでも描くことができるのですから。
こうしてペルジョヴスキは現在、美術館をはじめパブリックスペースの壁や天井、窓や床などをキャンバスに、白か黒の線で描きます。しかしそれらは展覧会の後には消されたり壊されたりしてしまいます。あいちトリエンナーレのための作品を制作する時にも、「この儚さは自由であることの代償である」と彼は言っています。
最後にペルジョヴスキは、未だ何者かによって規制されるパブリックスペースやコピーライトの問題、独裁政権時の宮殿が今日も立ちはだかっていることに警鐘を鳴らしました。
24年前というのはそう遠い過去ではありません。「1989」はあいちトリエンナーレのテーマにとっても、あるいは現代美術史をたどるうえでも重要な年です。昨日まで当たり前だと思っていた世界が目の前で崩れたとき、人々がどのように新たな歴史に立ち向かったかを過去の事例は教えてくれます。ペルジョヴスキが描いたあいちと日本と世界の縮図-それを見た私たちは、今後どのような未来を目指し、自由を獲得していけるのでしょうか。
(あいちトリエンナーレ2013アシスタントキュレーター 飯田真実)