2019年9月11日 トリエンナーレスクール
トリエンナーレスクール第17回
演劇を1000倍楽しむ方法
トリエンナーレスクール vol.17『演劇を1000倍楽しむ方法』レポート
ゲスト:相馬千秋
2018年度からスタートし、毎月1回、第3日曜日のトリエンナーレスクールが定着化してきましたが、今回で会期前最後の開催となりました。
ゲストは「あいちトリエンナーレ2019」パフォーミングアーツのキュレーター、相馬千秋さん。演劇に長く関わってきた相馬さんが「情の時代」というテーマからどんなことを見出したのか、古代ギリシャの演劇を主軸にトークが展開しました。
第1部 レクチャー
ゲストの相馬さんは、俳優などの経験は全くないと言い、自らを「観客の代表」と捉え、客観的に観客と同じ立場から向き合うことができるのを強みとして、プロデューサー、キュレーターとして舞台芸術に携わってきました。「あいちトリエンナーレ」では初回の2010年から国内外の様々なパフォーミングアーツを紹介してきました。ダンスが中心だったこれまでに比べ、今回は「演劇」を中心に紹介するところが特徴としてあげられます。
では、「演劇」ってどんなものなのか?そんな素朴な疑問からレクチャーがスタートしました。
「演劇って一言で言うと、どんなものだと思いますか?」と相馬さんが会場に問いかけます。「再現する」「演じる」「引き込む」「みる」「みんなで聞く」といくつかのキーワードが出てきました。それぞれは「振る舞いのキーワード」として考えることができ、その振る舞いは俳優(演者)と観客の2つに分けることができます。
●俳優(演者)の振る舞い
「まねる」「再現する」「語る」
今のようにカメラやテレビがなかった時代、今ここにないもの、過去の出来事を伝えるためには、そのものや状況をまねて再現することが有効でした。その際には、もちろん「語る」ということも重要になり、この3つのキーワードが演劇の基本的な考え方とも言えます。
●観客の振る舞い
「あつまる」「みる」
演劇の重要な要素の1つに「観客も舞台をつくりあげている」という考え方があります。観客なしの舞台というのは基本的に考えられません。目の前で繰り広げられていることをみることによって、それが演劇として成り立つことができます。
「すっきりする/しない」「考える」
これらも、演劇をみた観客の振る舞いと捉えることができます。舞台をみることによって、すっきりしたり、あるいはしなかったり、考えさせられたり、思考や心の振る舞いに影響が出てきます。今回のレクチャーでは、この部分を軸に展開していきました。
「なぜ私たちは、良い舞台や演技をみると「すっきりする」のか?」という続いての質問に対し、「自分の抱えている何か葛藤のようなものが、解決されるからではないか」と参加者から意見が出ました。つまり、登場人物の誰かに自己投影し、感情移入することによって自分が経験したように感じられ、カタルシスが起こることによって「すっきりする」と感じられるのです。カタルシスは「感情の浄化」を指し、紀元前4世紀にアリストテレスによってまとめられた『詩学』の中で論じられています。
(『詩学』第6章 悲劇の定義と悲劇の構成要素について 引用)
...行為する人物たちによっておこなわれ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するもの...
アリストテレスが活躍したのは古代ギリシア時代。この時代に「演劇」というジャンルはほぼ完成されたと言ってもいいほど、今日の演劇でみられる諸要素が出揃っていました。
ギリシア最古のディオニソス劇場は、パルテノン神殿が建つ丘の傾斜を利用して造られています。半円形の観客席の中央に舞踊場があり、観客席は「テアトローン(Theatron)」、ステージである舞踊場は「オルケストラ(Orchestra)」と呼ばれ、現代のオーケストラやシアターの語源にもなっています。また、舞踊場と観客席の間にはディオニソス神へ生贄を捧げる祭壇もあり、上演される劇は娯楽のためではなく奉納するためのものでした。
こうした場所で上演されていた古代ギリシアの演劇はどんなものを描いていたんでしょうか。中心となっていたのはギリシアの神々や、その子孫である王族、あるいは超人的な英雄の話といったもので、こうしたものがその後の西洋文明のインスピレーションの源泉ともなりました。いわゆるごく普通の人が主軸となった演劇が登場するのは19世紀以降で、チェーホフなどがそのはじまりだと言われています。
ギリシャ時代における「市民」とは、18才以上の成人男性のみを指し、子どもや女性は含まれていませんでした。年に1回、コンペ形式で演劇を奉納し、3名が選ばれそれぞれが4本戯曲を書きました。日の出とともに、1日4本が上演されたというので、かなりのハードスケジュールです。当時、観劇は義務と同時に市民の権利でもありました。演じていたのは「俳優」で奴隷が担っていました。当時、演者はたった1人で仮面を使い分けて、複数の役を演じていました。俳優とは別に合唱を担当する「コロス」という12〜15名の演者もいました。コロスは市民から選ばれ、目撃者や、登場人物の1人(集団で1人を演じる)、解説、(観客の)代弁者など様々な役割を演じます。
そこで演じられた舞台の特徴をまとめると、
・歴史劇、神話劇
・報告劇、再現劇、裁判劇
・対話劇
・市民参加型演劇
・舞踏音楽劇(ミュージカルのようなもの)
というように、現在の演劇とほとんど同じ要素がすでにあったことがわかります。
現代とギリシャ演劇をつなぐ
今回の「あいちトリエンナーレ2019」では、ギリシャ悲劇をベースにした演目が2つ上演されます。なぜ、現代においてギリシャ悲劇なのでしょうか。
相馬さんは「古くから感情を扱う芸術メディア1つである演劇によって「情の時代」へ1つの応答ができるのではないかと考えた」と言います。システムの中でコントロールされている時代に、自分の感情を「飼いならし」、どうしようもない感情と向き合う必要に迫られている今、哲学の「知」が有効ではないかと考え、ギリシャ悲劇をベースにしたそうです。
ポイントは「現代においてギリシャ悲劇を演ずるとしたらどういうやり方があるのか」ということ。
小泉明郎は、アイスキュロス作『縛られたプロメテウス』をベースとした作品を発表します。文明を人に与えた巨人族プロメテウスが、その罪のため世界の果ての岸壁に縛られて責め苦を味わうという悲劇は、「人は永劫の苦しみから解放されるのか、されないのか」ということを考えさせます。小泉明郎はVRを用い、観客自身がプロメテウスの置かれた状況を現代的に体験する作品《縛られたプロメテウス》を発表します。
市原佐都子(Q)はエウリピデス作『バッカスの信女』をベースにしています。ディオニソス神にまつわる話で、女性と男性、人間と動物といったものの両義性を持つ魅惑的な神であるディオニソスに心酔したまちの女性たちが山奥に行ったきり帰ってこなくなり、自身の母や叔母を取り戻しに来た王が、その2人によって八つ裂きにされてしまうという悲劇です。これを市原佐都子が現代におきかえ、ホルスタインと人間の間に生まれた主人公が、人工授精で自分を牛に産ませた母親に会いに行くというストーリーを考え出しました。この作品では一般公募で集められた「コロス」も参加します。
「いい演技」とはどんな演技でしょうか。1つは「役になりきる演技」でしょう。初めての職業演出家と言われるスタニスフラスキーは「自然な演技」、つまり自然主義リアリズムの演技を提唱しています。それとは真逆と言っていいものが「役と俳優の間に距離がある演技」です。ブレヒトが提唱した「叙事的演劇」で、登場人物に自己投影して得られるカタルシスを批判して生まれたものです。
「叙事的演劇」では、観客が状況の発見に価値を置き、観察者として状況を理解するために、流れを中断させる、あらすじを前もって解説する、役と俳優に距離をつくる、という異化効果を用います。観客は内容にのめり込むことではなく、距離をとって内容を批判的に考えることが求められます。「あいちトリエンナーレ2019」で紹介される演目はこのブレヒト的なものが多いと相馬さんは言います。
ミロ・ラウ(IIPM) + CAMPOによる《5つのやさしい小品》は、ベルギーではとても有名な女児誘拐殺害事件を題材に、被害者側・加害者側・両方の関係者からの証言や記録をもとに制作されています。ここでは1人をのぞいて、すべて子どもが演じており、あえて役と演者に距離をつくっています。その批評的距離によって、観客がその事件や演劇に対して冷静に批判的に考えることを促しています。
ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ+エンクナップグループ《幸福の追求》は、アメリカの西部劇の役になりきりすぎることで生じる滑稽さや空回りしていることのおかしみによって、建国理念の一つである「幸福の追求」を揶揄し、トランプ政権以降のアメリカの誇大妄想や空虚さを浮かび上がらせます。
劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール《ものがたりのものがたり》は、俳優と役との関係がかなり複雑な構造をしています。トランプ大統領、ビヨンセ、クリスチャーノ・ロナウドといった有名人の巨大人形を用い、どこにでもいるオランダの家族がピクニックに出かける様子を演じています。トランプが父役、ビヨンセが母役、ロナウドが8歳の子どもの役といったように、実際の人物からかけ離れていることのおかしみが、現代社会を少し違った角度から見せてくれます。
パフォーミングアーツのチケットは絶賛販売中。
あまり演劇に興味がなかったという参加者もいましたが、レクチャーを聞いて俄然興味が湧いて来た!という人がほとんどでした。ぜひ、実際どのような演目になるのか、その目で頭で体感してほしいと思います。
第2部 ディスカッション
今回のディスカッションは少し趣向を変え、最初に戯曲の朗読をすることになりました。
グループに分かれ『縛られたプロメテウス』を1文ずつ声に出して読み合わせていきます。普段読み慣れない戯曲の文体に苦労しながら、たどたどしくも5分間ほど読んでいきました。
その後、読み合わせた戯曲や、レクチャーの内容についていつもどおりディスカッションを展開していきました。
会話だけで関係性や場の様子などを想像する戯曲の文体に、わかっていたはずなのに予想以上に想像力が必要なことに驚いたり苦労したりした人もいれば、ブレストとカタルシスについて、自分のみた様々な演劇を例に出してコアな話をするグループもありました。また、ギリシャ悲劇についてほかの話に興味をもったり、実際にトリエンナーレではどのように演じられるのか、想像しながら話が広がったりもしていました。
開幕までもう間も無く。8月2日は最初の演目としてミロ・ラウ(IIPM) + CAMPOの作品が上演されます。たくさんの人が足を運び、体験したことについて様々に考えたり、議論してくれることを期待しています!
(レポート 松村 淳子)