2019年5月14日 トリエンナーレスクール
トリエンナーレスクール第14回
世界と日本における芸術祭の歴史と文脈
トリエンナーレスクール vol.14
『世界と日本における芸術祭の歴史と文脈』
ゲスト:加治屋健司
レポート
今回のトリエンナーレスクールは、美術史家の加治屋健司さんをゲストに、世界の芸術祭と日本で行われている芸術祭の流れから、「あいちトリエンナーレ」の位置付けや特徴について紐解いていくことを試みました。200枚を超える膨大なスライドは時間中にすべて見ることができず、加治屋さんからの膨大な情報を一気にインプットして、参加者それぞれが「話してみたい」「調べてみたい」「考えてみたい」というような"宿題"を持ち帰った、そんな高揚感のあるスクールとなりました。
第1部 レクチャー
加治屋さんはもともとアメリカの現代美術の研究をされ、その後戦後日本美術について研究をすすめ、広島市立大学で教鞭をとっていたときにアートプロジェクトに関わったことで、日本におけるアートプロジェクトの研究をスタートされました。
レクチャーは、加治屋さん自身の簡単な紹介から始まり、世界と日本の芸術祭を概覧し、日本のアートプロジェクトを大枠でつかみ、あいちトリエンナーレの歴史的、社会的位置付けについて考える、という流れですすみました。
世界で行われている芸術祭は数え切れないほどあると言っても過言ではありませんが、なかでも歴史が長く芸術祭を語る上で重要ないくつかの芸術祭が紹介されました。
芸術祭 |
場所 |
開始年 |
イタリア |
1885年〜 |
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アメリカ |
1896年〜 |
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ブラジル |
1951年〜 |
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ドイツ |
1955年〜 |
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インド |
1968年〜 |
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オーストラリア |
1975年〜 |
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ドイツ |
1977年〜 |
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キューバ |
1984年〜 |
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トルコ |
1987年〜 |
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アラブ首長国連邦 |
1993年〜 |
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オーストラリア |
1993年〜 |
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韓国 |
1993年〜 |
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ドイツ |
1998年〜 |
ほんの一部とは言え、これだけみても世界中で芸術祭が行われていることがよくわかります。2年〜3年毎に開かれるものが多いですが、「ドクメンタ」は5年毎、「ミュンスター彫刻プログジェクト」は10年毎と、間隔が空いているものもあります。開催年が重なるのは10年に1回。2017年にはこの2つが同時に開かれ、さらに「ヴェネチア・ビエンナーレ」が重なって、アート業界で大きな話題となりました。アートラボあいちではこの年に3つの芸術祭に関するシンポジウムを開催しています(レポートあり)。
芸術祭が開催されるまでの経緯は、各地様々です。「カーネギー・インターナショナル」はアメリカの実業家カーネギーが自身の美術館のコレクションを充実させることを目的にアーティストを集めて展覧会を開いたことがはじまりです。また、初期の芸術祭では自国の現代美術を紹介することを主な目的とするところもありましたが、現在では地域の特性、特色を出していく傾向にあるそうです。
「ミュンスター彫刻プログジェクト」はドイツの小さな街で開かれている芸術祭ですが、きっかけはジョージ・リッキーの彫刻作品を街に設置しようとした時の市民からの反発でした。これを機に市民と街、美術館などを巻き込んだ公共性と芸術性を巡る議論がおこり、それを踏まえて、美術館が主体となって彫刻プロジェクトがはじまりました。アーティストの中には、かなり前から街を訪れ、街についてリサーチしてから作品制作に入る者もいます。ただ作品を持ってきて置くだけでなく、地域と関わり、住民と交わってその場所に最適な作品を生みだしていくこのプロジェクトは他の芸術祭にも影響を与えているそうです。
「シャルジャ・ビエンナーレ」「インド・トリエンナーレ」「アジア・パシフィック・トライエニアル」などは、アラブ地域、アジア地域、アジア太平洋地域と、それぞれの地域で先駆けて開催された芸術祭です。「光州ビエンナーレ」や「ベルリン・ビエンナーレ」のはじまりは光州事件や東西ドイツ統一といった歴史的な出来事とも無関係ではありません。
日本の芸術祭はどうかというと、芸術祭ブームと言われるように各地で開催されています。
マッピングしていくと、ほぼくまなく日本列島に印をつけられるほどです。県単位で見てみれば、開催されていない県がほんのわずか、というくらいです(参考:「現代アートよ永遠ナーレ」)。
なかでも草創期にスタートした代表的な日本の芸術祭はこちら。
芸術祭 |
場所 |
開始年 |
タイプ |
|
茨城県 |
1999年〜 |
作家主導 |
東京藝術大学、取手市、市民が共同で行うプロジェクトとして始まった。当時、東京藝術大学先端芸術表現科教授だった川俣正はプロジェクトベースで活動している作家で、その影響が小さくない。 |
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新潟 |
2000年〜 |
地域振興 |
北川フラムがディレクターを務める「成功した芸術祭」。 |
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神奈川 |
2001年〜 |
創造都市論 |
当時の市長の都市構想「都市の空洞化対策として、クリエイティブによって都市を活性化させる」。 |
加治屋さんは「あいちトリエンナーレはこの3つのタイプを統一したようなものじゃないか」と言いますが、それについては日本の美術界の流れを先に追ってからとなりました。
「様々なアーティストが1箇所にあつまって作品をみせる」という意味では、団体展があてはまるのではないでしょうか。日本では「日展」や「二科会」などの展覧会がそれにあたり、これらの展覧会は今も大きな会場を使い、たくさんの人が訪れています。日展は終戦直後の1946年から始まりましたが、1907年に始まった文展、そのあとの帝展、新文展の流れを汲んでいます。他にも様々な美術団体の展覧会が開かれますが、それぞれの団体から推薦された作家を集めた「美術団体連合展」が毎日新聞の主催で5回開かれ、選抜するかたちで朝日新聞が「選抜秀作美術展」を17回開催しました。また、同時期に新聞社主催ではなく、団体の垣根を超えて、無審査無賞の「日本アンデパンダン展」(日本美術会主催)が1947年から始まります。1949年には同名の「日本アンデパンダン展」(読売アンデパンダン展)が読売新聞社の主催で始まり、赤瀬川原平や荒川修作、篠原有司男、工藤哲巳なども参加しました。
また、1952年から毎日新聞社の主催で「日本国際美術展」(東京ビエンナーレ)が開催されました。これは1年おきに開催され、1990年に終了するまで18回行われました。1967年から国際審査員によって作家が選ばれていましたが、1970年は中原佑介がコミッショナー(現在のディレクター、芸術監督の役割)を務め、素材やコンセプトを重視する作家を中心に選んだ『人間と物質展(第10回日本国際美術展)』が開催され、クリストやダニエル・ビュレンヌ、榎倉康二などが参加しました。
・1907年 文展(文部省美術展覧会)〜帝展(ここから独立して結成されたのが二科会)〜新文展
・1946年 日展(日本美術展覧会)
・1947年〜1951年 美術団体連合展(毎日新聞社主催)
・1947年〜現在 日本アンデパンダン展(日本美術会)
・1949年〜1963年 日本アンデパンダン展(通称「読売アンデパンダン展」、読売新聞社主催)
・1950年〜1966年 選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)
・1950年〜1990年 日本国債美術展(東京ビエンナーレ)(毎日新聞社主催)
・1954年〜2000年 現代日本美術展(毎日新聞社主催)
この「アンデパンダン展」の流れは、団体の垣根を越え作家個々人の交流が広まる契機ともなりました。ここで知り合った作家同士でグループをつくり、作家によって企画された展覧会が開催されるようになるなど、団体とは違った動きが起こるようになります。この動きは、日本各地でおこるアートプロジェクトの流れにつながっていきます。
日本のアートプロジェクトは野外で行われた美術展から語られます。
吉原治良によって結成された「具体美術協会」(1954年)は、先駆的な作品群を発表し続けた、日本の現代美術の動向を語る上で欠かせないグループです。彼らが1956年に野外で行なった「野外具体美術展」ではサイトスペシフィック、そこでしか成し得ない、その場に応じた制作活動と作品形態が発表されました。1970年には「現代美術野外フェスティバル」(横浜市、こどもの国)が開催されました。
70年代には公共彫刻事業がはじまり、まちなかに彫刻やモニュメントが設置されるようになります。80年代に入るとアメリカから「パブリックアート」という概念がもたらされ、場所の意味を踏まえた作品の設置が考えられるようになり、1994年に「ファーレ立川」(北川フラム)、1995年に「新宿アイランド」(南條史生)がつくられます。
ヤン・フートによる「シャンブル・ダミ展」(1986年)は、ベルギー・ゲントで行われた展覧会です。ヤン・フートは美術館の館長でしたが、会場となったのは、ゲント市の一般市民の家でした。アーティストは会場となる家の住人と交流して作品を制作しました。会場は街中に点在し、来場者は1軒1軒を順番にまわり、家の中に招かれてはじめて作品をみることができました。この試みは一般市民が展覧会に参加する点で画期的なもので、後年様々な展覧会などに影響を及ぼします。
・1954年 具体美術協会
・1956年 野外具体美術展(具体美術協会)
・1970年 現代美術野外フェスティバル
(80年代 パブリックアート)
・1988年〜1998年 アートキャンプ白州
・1990年〜2004年 ミュージアム・シティ・福岡
・1994年 ファーレ立川アートプロジェクト、新宿アイランド
・1994年〜2002年 灰塚アースワークプロジェクト
・1995年 水の波紋展
※日本のアートプロジェクトの流れの概観についてはこちらの資料もご参考ください。
日本の芸術祭について論じている書籍もたくさんあります。
宮本結佳は社会学的な視点で直島、大島、大地の芸術祭を題材に、地域社会とアートとの関わりについて書いています(『アートと地域づくりの社会学 直島・大島・越後妻有にみる記憶と創造』)。地域とアートがお互いに道具、手段と化して消費されてしまう関係性について言及するとともに、昔と今をつなぐことはアートであるからこそ可能になり、アーティスト自身が表現者として、地域に関与することを望むかどうかを考えることも大事であると述べています。
別府で行われていた芸術祭をディレクションしてきた芹沢高志の「触媒としてのアート」(『アートメネジメント研究』第10号)では、大都市ではない地域性の強い場所にアートが入ってくることについて「触媒」という視点で語られています。アーティストたちが作品制作のリサーチのために街を巡るなかで、都市型の芸術祭で求められることの多い「祝祭性」や「スペクタクル」あるいは「モニュメンタル」といった作品ではなく、場所に寄り添うような、もっと言えばその場に潜んでいくような作品の構想が生まれていく様子を目の当たりにしたと言います。その様子、結果としてあらわれてきた作品を受けて、芹沢高志は「反応や効果を強化する作用を持ちつつ、それ自体は変化しない"触媒"という存在になっている」と考えます。「触媒」という視点で芸術祭を捉えることで、場の力を引き出すアートの力を認め創造的な関係性を地域とアートに見いだすことができると論じています。
藤田直哉『前衛のゾンビ 地域アートの諸問題』では、どんなに理論的に芸術祭の価値について論じていようとも、「地域活性化として芸術祭を利用する」という前提がある以上、芸術祭は地域活性化に奉仕し閉じた状態であると問題提起をしています。地域とアートの関係性について、様々な問題を提起することができつつも、そればかりではない視点でみることの必要性も感じさせます。
ここまで、世界と日本の芸術祭について、そして日本で芸術祭が興隆していくきっかけを生んだアートプロジェクトの流れを早足で確認してきました。改めて「あいちトリエンナーレ」の特徴、立ち位置をどのように考えることができるでしょうか。
芸術祭には、①作家主導の試み、②地域振興を目的としたもの、③創造都市型という3つのタイプがありました。加治屋さんは、「大地の芸術祭」や「横浜トリエンナーレ」のはじまりから10年経ってからスタートした「あいちトリエンナーレ」は、「それまでの先行事例を踏まえながら、多様な意味・機能・文脈を持つ、アートプロジェクトとしてみることができるのではないか」と、新しいタイプの芸術祭として考えることの可能性を提示されました。後半は時間の制約で駆け足となってしまったため、論考を深めることができず、物足りなさを感じた方は多かったと思います。しかしながら、加治屋さんからの宿題として「あいちトリエンナーレ2019」を体験しながら考え続けていければと思いました。
第2部 ディスカッション
第2部は、いつも通りのワールドカフェ方式、加治屋さんの200枚越えのスライドを全部見れなかったことで、かえって体験を共有したい欲求が高まったのか、「話したくてたまらない!!」というハイテンションなディスカッションとなりました。
「あいちトリエンナーレ」の位置付けに関する個々人の意見も様々に出てきましたが、目立ったのは、「芸術祭をどのように評価するのか」「成功した芸術祭の基準はなんなのか」といったテーマが、多くのグループで出てきたことです。
例えば「経済効果○○億円」「来場者数○○万人」「よかった!と答えた○○人」など、数字の評価が1つ考えられます。「予算○億円に対して、収入○億円、来場者数○人」と具体的な数字を見ることで経済効果が高ければその地域の経済活動に貢献できたといえます。ディスカッションで出てきたのは、こうした評価ではなく「その地域のアートに貢献できたかどうか」「その地域にとって良かったと言えるかどうか」という、数字で出てくるものだけでは判断しきれない部分について、どのように、誰が判断するのかという点です。
これは、レクチャーの中で紹介された芸術祭に関するいくつかの書籍それぞれで判断がわかれているように、切り口1つで変わってしまうもので、絶対的な判断は誰も下せないかもしれません。また、数年、数十年といった長期的に追うことで見えてくる部分もあるはずです。そうした色々な意見を話し合いながら、「あいちトリエンナーレ」をそれぞれがどう見ていくのか、どう捉えていくのか、考えを巡らすことができました。
(レポート:松村淳子)
(撮影:あい撮りカメラ部)