2018年12月26日 トリエンナーレスクール

トリエンナーレスクール第9回

2019年ラーニングのプログラムが目指すこと

2018年10月21日(日)トリエンナーレスクールレポート

今回のトリエンナーレスクールはいつもの会場「アートラボあいち」を飛び出し、ついに「あいちトリエンナーレ2019」の会場のひとつである、円頓寺地区での開催となりました。進行役の飯田志保子チーフ・キュレーターの挨拶で始まったスクールの冒頭では、会場である「長久山円頓寺(ちょうきゅうさん えんどんじ)」のご住職の挨拶もあり、お寺の講堂で座布団に座って聞くというスタイルが、新鮮味のあるレクチャーになったのではないでしょうか。
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〈概要〉

あいちトリエンナーレ2019 トリエンナーレスクール vol.9
2018年10月21日(日)14:00-16:00
『2019年ラーニングのプログラムが目指すこと』
講師:会田大也(あいだ だいや)
進行:飯田志保子(いいだ しほこ)

〈第1部:レクチャー〉

これまでのスクールでは進行役として登壇していた会田キュレーター(以下、会田講師)ですが、今回は講師という立場であいちトリエンナーレ2019のラーニングについてお話ししました。最初に飯田チーフ・キュレーター(以下、飯田)から説明があったのが、あいちトリエンナーレ第1回目からの呼び方である「エデュケーション」「教育普及/普及教育」を「ラーニング」という名前に変えた経緯です。あいちトリエンナーレが開催4回目を迎えるにあたり、前者の言葉の中に感じられる啓蒙的な"上から下"への学びではなく、みんながお互いにフィードバックを与え合える、キャッチボールができるような場を作っていきたい、という話がありました。そして「今回のラーニングでは何を目指すのか更に詳しい話を。」ということで会田講師にバトンタッチ。

最初に会田講師が話したことは「アートが好きではない人にもリーチしたい、そういう人にも何かメリットがあるといいな。」ということでした。
「アートが来たからお店が儲かった、とかトリエンナーレのおかげでお嫁さんをゲット出来た、とかでもいい!」とのこと。とっても具体的ですよね。
そして、「アートが好きではなくてもアーティスティックであること、クリエイティブであることは、大切だしいろいろな局面で役に立つこと。」であると。
ここであらためて会田講師の自己紹介になります。会田講師には兄弟がいて、名前はモンドさんとレオさん(カタカナで失礼します!)で、ダイヤモンドレオ。地元では名前を覚えられやすくて有名だったとか。

そして、現在の主な活動の紹介では、「ミュージアムエデュケーションのお仕事」や「企業における社員研修」「地域コミュニティにおけるワークショップ(まちづくりや地域PR)」「利用者によって発展する公園づくり」の4つを挙げました。

詳しく説明すると、1つ目は美術館など芸術作品を鑑賞する場において、鑑賞者がそれらの作品について詳しく知り、より味わい深く楽しめるようにするための活動がミュージアム・エデュケーション。日本語で言うと「美術館における教育普及活動」ということになります。
2つ目は1つ目から派生した人材育成。いろいろな企業の社員さんたち向けに「仕事の中でどうしたら創造性を発揮できるのか?」というトレーニングをしているそうです。
3つ目は、所謂「まちおこし」のお手伝いといった事で、例えばその地方をPRする映像を作ることなどが一般的なやり方だそうです。実際に風光明媚な温泉地帯として有名なとある街のPR動画で、世間で話題になったものがあるそうですが、結局のところ映像は消費が早い→すぐ古びてしまうという問題もあって、それよりも街の人たちがどうPRをコントロールできるか。自分たちでいいデザイナーなどのクリエイターに注文する力をつけてほしいと考えたそうです。そのためにまちにPR研究会を立ち上げて、3年間という長いスパンで活動してもらうことを行っているとのこと。
また、もっと深刻な事例としては人口が減少していく地域(過疎地や被災地で帰宅が未来まで困難な地域)で、物理的なコミュニティとしては解体せざるを得ないかもしれないけれど、どうやって歴史的なつながりを維持していくか、といったことにもワークショップなどの活動を通して取り組んでいるそうです。
4つ目は利用者自身が遊び方、使い方を考えて遊ぶ公園とのこと。なんだか面白そうです。
最近は公園に行くと、安全性とか、それを担保する責任とか、クレームが、とか、(きっといろいろあるのでしょうが)とにかくアレはしちゃダメ、コレはしちゃダメ、という注意書きが非常に多い。そういうところではどんな遊びをしようか、考えることも難しい。そこで、自分たちの公園を自分たちのルールでつくっていこうという取り組みについての話がありました。
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ここまでで会田講師の自己紹介が終わり「参加者の皆さんと考えたいこと」として大きな命題がスクリーンに映し出されます。それは「アートは難しい」という一言。やはり一般的に「現代美術は難解だ」とのイメージがあるのでしょう。「こう思った事があるひとはどのくらいいますか?」という会田講師の問いかけに会場の3分の1ほどの方々が手を上げて応えます。興味を持って集まっているであろう方々でさえこの割合なのだから、もっと対象を広げたとしたらその数は推して知るべしですよね。会田講師自身も山口情報芸術センター(以下、YCAM)に勤務されていた11年間、この言葉と戦ってきたとのこと。また、「アートを分かりやすく説明する」ということが本当なのか、「それって可能なのか?」ということが課題意識としてあると言います。

例として示されたのが「古池や 蛙飛び込む 水の音」という、あまりにも有名な芭蕉の一句。そしてその一般的な解釈も説明されます。古い池にカエルが一匹飛び込んだ。その音によって周囲の静寂が一層引き立った。教科書にもそう書いてありましたよね。そう習ってきた私達は、このたった17文字を目にするたびに、なんとなく古いお寺とその境内の池と、そこにカエルが飛び込む小さな音につづく静寂がイメージされますが、「果たしてそれは本当か?」と会田講師は続けます。
たとえばこの句を英訳する際「a frog」を「some frogs」にしてしまったとすると、全く印象の違った結構気持ちの悪い風景になってしまいます。「そんなのはただの間違った英訳だ!」と簡単に一蹴もできません。元の句にカエルは一匹だとはどこにも書かれていないのですから。実際はもう少し他の資料などを調べると、やっぱりカエルは一匹だったようですが、この句そのものの中にそんな情報は無いと。つまりここでは読むひとの側に解釈が委ねられている=読むひとに創造性を発揮する余地が残されている、とも言えるわけですね。
翻って、現代美術に対象を移すと、これはもう非常に解釈の余地が大きい。ここで会田講師がよく例えとして出す話がありました。「現代美術は出来立ての火山です。それは登るルートがまだ確立されていなくて、キュレーターや批評家などの専門家の方々は他にもたくさん登っているからおおよその登山ルートの見当はつくけれど、まだ誰も登ったことがないのだから、誰が一番いいルートを見つけるかはとてもオープンな状態なんです。」たしかに、あいちトリエンナーレでも開幕数日前になってやっと完成する作品もきっとたくさん出てくるでしょう。とにかくこの出来立てゆえの「どんな解釈も成り立ちうる」ということこそが現代美術の特徴であり面白さなんですね。

ここで隣で頷いていた飯田も発言。
「出来立ての作品を前にして、アーティストもそれについてうまく説明できないことは多々あって、アーティストとキュレーターで一緒になって作品を読み解いていくことや、その作品を咀嚼するのに何年もかかることさえある。だから、アーティストや偉い人だからというだけで、その解説を盲目的に信じてはいけないと学生時代に教わったことがある。」とコメント。
これは結構衝撃的な一言なのでは?「えー!そんなこと言われたら余計わけわからないよ!」と焦るか、「な〜んだ、そうなんだ。」とホッとするか、みなさんはどう思われましたか?

会田講師もこの発言にさらに反応し、まさに現在、アートラボあいちで準備中の展覧会「窓から。」に出品される大洲大作さんの例を挙げました。
大洲さんは写真を主軸に置いた作品をつくっているアーティスト。会田講師は作品についての大洲さんとのやり取りの中で、写真を撮った時ではなくて、展示して初めて自分が何を感じて撮影していたのかが分かるということと、「そのときは作品を見てそう感じたと思っても、数年後にまたその作品を見返すと、全然違った見え方をしてくることもよくある。」という大洲さんのコメントを紹介。この例から、アーティストの中に自作の解説を嫌がる人が少なくないのは、作品の解釈を固定されてしまうと、鑑賞するたくさんの人たちによって自由に受け止められていく広がりを失ってしまい、作品の可能性を狭めてしまうという理由からだということが窺えます。なにか一気に核心を突いた話になってしまって「これ以上続ける必要があるのかな?」と会田講師が漏らすほど、トークが熱を帯びた瞬間でした。
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会田講師はここでまた話を戻して「アートを分かりやすく説明する」は可能か?の続きに向かいます。
まず、「アートとはなにか?他の文化と同様、アートにも歴史があり、その歴史とは、『過去の技法を乗り越える意思』と言っても良い。人類が発生した時からなんらかのアートがあったわけで、そうやって知っていけば、他のいろいろな「文化」と呼ばれるものと同様面白いものであることは間違いない。」
また、「アーティストは『未来市民』と呼ばれることもあって、ちょっと未来のことを考えている、今を生きている人である。」と。「そんな人たちが創りだす作品は、ちょっと未来を先取りしていたり、逆に過去を新たな視点で捉え直していたりと、すぐにはよく分からないこともあるかもしれないが、それぞれの時代の状況に呼応した『声』でもあって、鑑賞者として私たちができることは、そういう『声』に応答することであって、正しいか正しくないかで判断するのはちょっと違うのではないか。」
「私たちは義務教育の中で、芸術とは有り難いものなんだ、という教えを刷り込まれすぎている。芸術作品を目の前にした時に、コレは有り難いものであり、なにか大切なことを表しているらしいのに自分にはよく分からない、という状況が起きてしまい、余計にアートに距離を感じてしまうといったことがある。有り難いものという思い込みから自由になったほうがいいんじゃないか。」と続けます。

以前の職場(YCAM)では、ミュージアムエデュケーターという立場で仕事をする中で、「アートを分かりやすく説明する」という言葉に違和感を感じながら、それについて取り組んでいた時期もあったそうです。そんな頃、深夜の職場で同僚と語り合う中で「この違和感って、こういうことなんじゃない?」と話題になったのが、以下の事柄です。

「分かりやすく説明する」という言葉には暗に次の二点の指摘を含んでいる。
・それを作ったアーティストの表現力が無いこと
・それを見ている鑑賞者の読解力が無いこと
さらに、「分かりやすく説明する」ことで鑑賞者の想像する行為を邪魔してしまう。言い換えれば、鑑賞者が自分で作品を楽しむという能動性を奪ってしまうということに繋がる。

ということで、「アートを分かりやすく説明する」というアプローチは、きっとなにか違うのではないかと考えるようになったそうです。それは逆に言えば、「アーティストを信用し、鑑賞者も信頼し、目の前にある作品についてじっくり対話ができる場を作ってあげる事がやるべきことなのではないか。」ということにもなります。


『自分ごとを産み出すために』
「目の前の作品について、お客さん気分で『なにを教えてくれるの?』という態度の人とはやっぱりうまく行かない。そうではなくて、作品や、あるいはアーティストが言っていることに対して、自分ごととして楽しんだり応答したりができるといいなと思います。」と述べたところでスクリーンの画面が切り替わり、ついに<2019年ラーニングのプログラムが目指すこと>の解説にさしかかります。

「あいちトリエンナーレ2019ラーニングのプログラムでは、鑑賞者の自然な振る舞いのプロセスに沿って、1)作品を見て「受けとる・感じる」、2)それについてもっと詳しく知りたいな、となった時に「深める・考える」、3)それを受けて自分だったらこうするな、とか自分はこう思ったよ、ということを文章にする、もっといえば批評するといった意味で「表現する・交換する」。このサイクルがぐるぐる回るような場をつくることで「分かりやすく説明する」というものとは違ったラーニングのカタチができるのではないか。それを『アート・プレイグラウンド/art playground』と名付け、2019年のトリエンナーレ各会場(愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、四間道・円頓寺、豊田市)に作っていきたい。」
「具体的に何をやるかはまだこれから決めていく段階だけれど、表現することで言えば、例えばからだを動かすこととか、なにかものづくりをすることかもしれないし、くつろいだ場で他の人と意見を交換することや、ラジオ放送局をつくってだれでも喋れるラジオ番組を作るのも面白いかもしれない。またはじっくりどこかの飲み屋さんでお酒を飲みながら語り合えるような環境ができたらいいですよね。」と、会田講師の口から楽しげなアイディアが語られていきます。
これらの事は、他人事にならないで能動的に関わることを可能にする、来場者・鑑賞者が創造性を発揮できるトリエンナーレになることを目指しての取り組みになるわけです。ここで、第二部で参加者のみなさんに行ってもらうディスカッションのお題が示されました。

それは、「四間道・円頓寺において、あいちトリエンナーレ期間中に、どんな風景が立ち上がるといいな、と思いますか?」というもの。
そのまま第二部のディスカッションに移行するかと思いきや、そのまえに自己紹介の時に少し触れた、利用者自身が遊び方を考えて発展していく公園づくり、「コロガル公園」(https://www.ycam.jp/archive/works/korogaru-koen-park/)の映像が紹介されました。

前出の「自分ごと」として創造性を発揮できる場作りのヒントになるかも、とのこと。
「『コロガル公園』とは、YCAMで2012年から続いているプログラムで、まずからだを使った『遊び』がキーワード。『遊び』は、義務でやることではない=頼まれてもいないのにやってしまう事、とも言えて、それをエネルギー源にして何か活動するということはとても大事。計画中の『アート・プレイグラウンド/art playground』にもそういった『遊び』の要素を仕掛けられると良いなと。それは必ずしもアートに直接関係なくてもよくて、お酒を飲むのが好きな人はそれがその人のネルギー源になるし、人と交流するのが楽しい人はその交流の場を作っていく事自体がひとつの目的になるだろう...。」とアート・プレイグラウンドの構想も挟みつつ、「コロガル公園」の映像を見ながら解説は続きます。
基本的には「コロガル公園」で楽しそうに遊ぶ子どもたちの映像ですが、いろいろと気になる活動をしている様子が。子どもたちが何か書いた紙を見せ合ったり、それを元に大勢の子どもたちを相手にプレゼンテーションしたり、ディスカッションしたりしているようです。これは、子どもたちが公園の機能を拡張したり、新しい遊びを提案しあっているところで、何度もアイディアを戦わせて、そのアイディアを更新させていき、支持を得たモノを周りの技術者たちがサポートすることで実現していくとか。そのアイディアの中には「異なる建物間で行う鬼ごっこの難しさ(?)を通信技術で解決して欲しい」「空中を歩きたい!」など子どもならではの自由でハイレベルすぎる要求もあったそうですが、予算とも折り合いをつけながら、YCAMの技術者集団の技と創造力でこれらの要求を現実に落とし込んでいったそうです。自分たちで考えたアイディアによって公園がどんどん改造されていくなんて、子どもにとっては超楽しそう!ですよね。また、そうやってアイディアをアウトプットすることで、より頭の中で考えが整理されて明確になるし、ディスカッションしたりプレゼンテーションをしたりすること自体もひとつの遊びになると。

「これは蛇足的な話なんですが」と会田講師は前置きしたうえで、2013年度のYCAMの「コロガル公園」では、会期を延長してほしい!と言う声が子どもたちから立ち上がり、周りの大人たちの助言も得ながら、自発的に署名運動まで行って、会期延長を実現させるということを達成してしまった!というエピソードまで紹介。予算も期間もかっちり決まった公共事業という側面もあるはずのこのプログラムを、ここまで参加者である子どもたちが能動的に関わって変えていくって、本当にすごいことです。
「これは、子どもたちが行った署名活動が学校の垣根を超えたネットワークを作ったり、スーパーやコンビニなどのお店にも署名用紙を置いてもらったりして、どんどん運動が大きくなっていく中で手応えを感じてきたということと、いままでこの公園で行ってきた子ども同士でアイディアを戦わせるミーティング(「遊び場ミーティング」という名前がついていました)において、『思いをカタチにする』ことで未来が書き換わっていくということを体験してきたからだろう。」と、会田講師は続けます。
ここでキーワードとして出てきたのが「オーナーシップ」という言葉。「この公園を管理しているのは山口情報芸術センターという施設だけれども、オーナーは僕たち私たちなんだ!」という思いです。これは別の言い方をすれば、「他人まかせ」にしないということであり、要望があったらだれかにお願いして何とかしてもらうのとはまったく逆の態度です。自分たちのものだからこそ、不都合があったら自分たちで動いて変えていく。コンピューターのプログラムを改変するように、現実世界さえも改変しうるということを会田講師は「プログラマブル・リアリティー(Programable Reality)」と呼んでいて、こういったスタンスは、例えばシリコンバレーの若者などにも通ずるものだそう。
「翻って、あいちトリエンナーレ2019においても、可能な限りそういった『オーナーシップ』を持った人たちが増えていくといいな。そのためには、僕があんまり来場者に対してお客様、お客様、と言っているとそういう関係って成り立たないですよね。」

これらを踏まえて、話題は先程の「四間道・円頓寺において、あいちトリエンナーレ期間中に、どんな風景が立ち上がるといいな、と思いますか?」というお題に戻ってきました。そして、最後にもう一つ出てきたキーワードが「交流」。「芸術作品を見ることは、すこし乱暴に言ってしまえばその地を訪問するための言い訳でしかないのかもしれない。もちろん一生懸命作家を選んで、関係者一同全力で作り上げている真っ最中のあいちトリエンナーレではあるんですが、展覧会を見に他の地方から訪れた人が、地域の人と触れ合って、またあの人に会いたいな、また愛知に来たいな、という気持ちをお土産に持って帰ってもらえたらいいなと思います。」という言葉で締めくくられた第1部でした。


〈第2部:ディスカッション〉
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「円頓寺・四間道において、あいちトリエンナーレ期間中に、どんな風景が立ち上がるといいな、と思いますか?」
このお題のもと、今回もいつもと同じくワールドカフェ方式で行われたディスカッション。リピーター参加者のみなさんは手慣れた様子で(座布団スタイルなので)車座になって様々な意見を交換していました。また、初参加の方には、高校や大学の講師をされている方が鑑賞教育の勉強のために来られたとか、授産施設の職員の方が、障がいのある人の美術制作、発表の機会を一般に開かれた場所で得るためにはどうしたらいいか?といった具体的な目的でいらっしゃる方も。
何組かのテーブル(というか座談会)に参加してみた中では、「円頓寺界隈とひと括りにされがちだが、四間道、円頓寺、そして堀川の住民の方々にとっては、3つのエリアはそれぞれ別の町である、という意識があり、それらをつなぐように作品が展開されることを期待する。」との地元に近い方からの声が興味深く感じました。また、2013年の長者町、2016年の豊橋に出現したビジターセンターのような、みんなが集まれる場所が欲しい!という意見も大いに頷けるものでした。

会田講師のトークに触発されて、こんなトリエンナーレになるといいな!と参加者のみなさんがそれぞれ妄想を膨らませながら終了した今回のスクール。この調子で「自分ごと」の輪を広げていって、みんなで盛り上げていけるといいですね!

(文:谷 薫)