コンセプト

「政治は可能性の芸術である」––––ドイツを代表する政治家・ビスマルクの言葉だ。ゴルバチョフや丸山眞男など、後世の政治家や政治学者が積極的に引用し、政治というものの本質を一言で表現したものとして定着している。ビスマルクはその生涯において同様の発言を繰り返しており、「政治は科学(science)ではなく、術(art)である」という国会でのスピーチも記録に残っている。

政治評論家の森田実は、この言葉を「政治は科学的合理性だけでは理解できるものではなく、いわば芸術の領域に含まれるような直観を備えることが大切である」「政治は理屈のみで考えるものではなく、芸術とも根を同じくするもの」と解説する。

アート(art)の語源は、ラテン語のアルス(ars)にあると言われている。アルスはギリシア語のテクネーに相当し、したがって「アート」という言葉も初期近代までは「古典に基づいた教養や作法を駆使する技芸(ars)」一般を指していた。

ビスマルクの「術」もこれに近い意味であろう。「アート」という単語がすなわち「芸術」や「美術」という意味に変容していくのは19世紀以降の話である。ビスマルクの言葉に象徴されるように、政治は「民衆の納得と同意を獲得する技芸」と定義されるが、それは語源的に「アート」が元々「政治を対象に含む一群の学芸や技芸」として理解されていたところが大きい。

言葉は、時代の変遷とともに変容する。

現在、世界は共通の悩みを抱えている。テロの頻発、国内労働者の雇用削減、治安や生活苦への不安。欧米では難民や移民への忌避感がかつてないほどに高まり、2016年にはイギリスがEUからの離脱を決定。アメリカでは自国第一政策を前面に掲げるトランプ大統領が選出され、ここ日本でも近年は排外主義を隠さない言説の勢いが増している。源泉にあるのは不安だ。先行きがわからないという不安。安全が脅かされ、危険に晒されるのではないのかという不安。

近代以降、どこまでも開かれ、つながっていくことへの渇望がグローバリズムを発展させた。しかしその一方で、ひたすらに閉じて安心したいという反動が今日のナショナリズムの高まりを支えている。両者の衝突が分断を決定的なものにし、格差は拡大し続ける。

情報が多過ぎることも災いしている。われわれの「感情」は、日々さまざまな手段で入手する情報によって揺り動かされる。視聴率や部数を稼ぐために不安を煽り、正義感を焚きつけるマスメディアから、対立相手を攻撃するためであれば誤情報を拡散することも厭わないソーシャルメディアまで、多くの情報が人々を動揺させることを目的として発信されている。

複雑な社会課題を熟議によって合意形成していくのではなく、一つのわかりやすい解答を提示する政治家に支持が集まる状況も同じである。近年、選挙に勝つことだけを目的にしたデータ至上主義の政治が台頭したことで、かつての人文主義的な教養や技芸と深く結びついた統治技術(ars)はすっかり廃れてしまった。

厄介なことに、「情報」によって一度「評価」された感情は、変えることが難しい。イタリアのIMTルッカ高等研究所の計算社会学者ウォルター・クアトロチョッキらの調査結果によると、虚偽の情報を基に作られているウェブサイトの読者が、その虚偽を暴く情報に接する––––「事実」を突きつけられると、驚くべきことにそのウェブサイトを読み続ける確率が3割も高まるという。イェール大学のデイビッド・ランドらも同様の調査結果を発表している。

「事実(fact)」よりも対象を信じたい感情の方が優先されるのは、事実を積み重ねていっても決して「真実(truth)」にはならないからだ。それらは本来、切り分けて考えなければいけない。全ての問題を対立軸で捉えるのも誤りである。この世に存在するほとんどの事柄はグレーで、シロとクロにはっきり切り分けることができるのは全体から見てほんのわずかだ。

『漢字源 改訂第五版』によると、「情」という漢字には「感覚によっておこる心の動き(→感情、情動)」、「本当のこと・本当の姿(→実情、情報)」、「人情・思いやり(→なさけ)」という、主に3種類の意味がある。

2015年、内戦が続くシリアから大量に押し寄せる難民申請者を「感情」で拒否する動きが大きくなっていた欧州各国の世論を変えたのは、3歳のシリア難民の少年が溺死した姿を捉えた1枚の写真だった。この写真をきっかけに、ドイツとフランスは連名で難民受け入れの新たな仕組みをEUに提案し、続いてイギリスもそれまでの政策を転換して難民の受け入れを表明した。欧州を埋め尽くしていた「情報」によって作られた不安を塗り替えたのは、人間がもつ「情」の中でもっとも早く表出するプリミティブな「連帯」や「他者への想像力」ではなかったか。

世界を対立軸で解釈することはたやすい。「わからない」ことは人を不安にさせる。理解できないことに人は耐えることができない。苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望をもたらすことを知りつつ、その手段を取ることをハナから諦め、本来はグレーであるものをシロ・クロはっきり決めつけて処理した方が合理的だと考える人々が増えた。

イアン・ハッキングは著書『偶然を飼いならす:The Taming of Chance』で、19世紀以降の近代社会において、統計学が誕生し、人間を集団––––動物の群れのように効率よく管理する仕組みとともに発展していく様を、フーコーの「生権力」の概念を援用しながら巧みに描いた。21世紀の社会はまさに延長線上にある。われわれは、権力によって、あるいはメディアによって、動物のように管理されている。

しかし、それでも人間は動物ではない。人間は、たとえ守りたい伝統や理念が異なっても、合理的な選択ではなくても、困難に直面している他者に対し、とっさに手を差しのべ、連帯することができる生き物である。いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。

われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の「アート」ではなかったか。アートはこの世界に存在するありとあらゆるものを取り上げることができる。数が大きいものが勝つ合理的意思決定の世界からわれわれを解放し、グレーでモザイク様の社会を、シロとクロに単純化する思考を嫌う。

近代以降、日本のものづくり産業(ars)をリードし続けた愛知という地域は、都市であり地方であり、「普通の日本人」だと自認する人々が暮らす非凡な社会である。ナショナリズムとグローバリズム、エリート主義と反知性主義、普遍主義と相対主義、理想主義と現実主義、都市と地方、高齢者と若者––––われわれが見失ったアート本来の領域を取り戻す舞台は整った。

あいちトリエンナーレ2019芸術監督
津田大介