芸術監督・港 千尋×演出家・勅使川原三郎プロデュースオペラ『魔笛』インタビュー

勅使川原  創られた作品は、常に別の反射をもっている、あるいは乱反射している。静止しているものと動いているものの違いはありますが、写真というものは舞台とは一見異なり止まっていても、何か動きを感じさせるものだと思いますね。

  全くそのとおりです。写真は静止画ではない。写真は常に動いています。

勅使川原  それはインスタレーションも一緒。ただ、インスタレーションは空間的という発想が強く、むしろ写真の方が時間的なんですよ。そういうことも含めて、舞台上の美術は存在すべきだと思いますね。いわゆる舞台装置って、そのまま置いたら“まんま”なんですよ。ただの作りごとでしかない。限定された、作られたもの。先ほど光が面白いって話をしましたよね。当然、光も機材から出てくるわけだけれど、光は触れられない。でも物は置いてあると、簡単にどかせるだろう、壊せるだろうと考えてしまう。だから物がある時は、僕らはより注意深くならなければいけません。そう考えていくと、より想像力をかきたてるのは、より力を持つのは“時間性”です。時間が生み出されると思った時に、ひとは動揺するし、引きつけられる。その点では、光も同様です。

  先ほど勅使川原さんは「『魔笛』を、なぜ日本人がやるか」ということが重要だとおっしゃいましたが、「なぜ、この時代にやるか」ということも同じように重要です。ニュートンどころかアインシュタイン以降の宇宙を生きている我々は、モーツァルトの時代の光を同じように表象させるわけにいかない。それでは単なる絵空事というか、おとぎ話になってしまう。私たちは、今の時代の光や音の経験の中で観るわけですからね。

勅使川原  時々、テレビで夜中に70年代とか80年代のビデオクリップを放送していますよね。そうすると、照明がその時代のものなんですよ。音楽クリップに限らず、ドラマでも映画でもそうでしょうけれど、機材の問題ではなく、その時代において良いと感じさせた照明というのかな。

  写真なんか特にそうですよ。プリントを見ただけで時代がわかるのは、どういう照明が使われていたかわかるからなんです。21世紀の照明と19世紀の照明は全く違いますよ。見る側は、ものすごく敏感ですから。

勅使川原  だから同じものでも時代を越えて扱う時、対象物、物質という観点ではなく、光の扱い方によってどう変わるか、意味づけされるかを意識しなければいけません。

  そういう意味でも、モーツァルトは天才だった気がしますよね。『魔笛』は、物質と非物質の闘いという風にも読み換えることができるわけで……。

勅使川原  音楽から光を感じるんですよね。これは何かが走ってきたぞ、漂ってきたぞと感じる。僕は“時代を超えた生意気”なので言いますけど(笑)、いろんな演出家が「こういう空間」「こういう照明」と思ったとしても、モーツァルトはもっと違う光を感じてたんじゃないかと。何かを描き出すとかディスクライブ(記述)するとか、感情の陰影を表現することが、人間の存在を明らかにする演劇だとかパフォーマンスだという人がいるかもしれないけど、僕はそうじゃない。映画監督の小津安二郎なんかもそうでしょうけど、フラットにね、陰影を作らないで、一面で十分だというやり方も、ステージの上では言えるかもしれないんです。感情でも何でも、豊かに豊かにと言いがちだけど、もっとフラットにやることも大切。それが港さんと共通の興味かもしれない。舞台で作られるフューチャーリズムというか、単なる未来志向ではなく“いま、なぜ、それをやるのか”というところに、答えを求めたいと思っています。

  あらためて『魔笛』を読み返し、聴き返すにつけても、アマデウス・モーツァルトは、この芸術祭の参加アーティストとして記したいぐらい今日性を持っています。そして今回の舞台は、勅使川原さんとモーツァルトの時空を超えた対話でありコラボレーションであると、お話をうかがってますます実感できました。オペラは総合芸術ですけれど、国際芸術祭で上演される機会は世界中を見渡してもありません。現代アートとオペラが、同じ次元で対話できる芸術祭は他にはないので、本当に画期的なものになると確信しています。

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