芸術監督・港 千尋×演出家・勅使川原三郎プロデュースオペラ『魔笛』インタビュー

勅使川原  ある種、天上的なもの、天使的なものですよね。そういった性質と、ある種の俗な性質を同立させているのがモーツァルトという人です。

  猥雑さや食欲、性欲といったものも入ってきますからね。もともとモーツァルトの音楽には身体性があって、そんなに純粋なものではなくて、人間臭い。

勅使川原  『魔笛』は、今たまたま感じたんじゃないかということが、結局、何千回考えても同じところに帰着するような、ある意味、自然の摂理に大きく影響されている気がします。そこは日本人の我々と通底するところじゃないでしょうか。だから、どう解釈するかとか、言語的な意味合いや文化的な理屈で構築したくないですね。要約ではなく、より広がるものとして、老成しながら純化していく“純粋性”を伝えたい。ただ、そうなると死に向かうという表現もあると思いますが、このオペラはあくまで“生”の作品です。それは光と言うのか……。色彩も光の屈折によるものですし、『魔笛』を通じて“光”とは何なのかを考えたいですね。そして、光がオペラの音調とどう響き合うかも重視したい。

  今回のトリエンナーレのテーマに“虹”という言葉が入っているように、音と色彩の多様性が、参加するアーティストの国や文化、世界の多様性につながればいいなと思っていました。ビジュアルアーツでも、色彩と音はクローズアップされていきますよ。

勅使川原  僕は音楽業界的に新しく解釈されたオペラ『魔笛』をやりたいわけじゃないんですよね。例えば、もしも音楽がなかったら『魔笛』に何が見えるのか? それでも音楽が聴こえてくる、感じられるぐらいの光が作品の中に存在しなければ、つまらないと思うんです。そういう意味でも、ある統合されたものにしたい。バラバラにして脱・構築的なこともできるけれど、今回はより巨大宇宙的でありながら、より内省的に内側へと向かっていく力が必要。ミニマルでありながら、それが遠方へと放射する、遠くまで行ってしまうような光の強さを持っていなければなりません。『魔笛』の音楽を聴いていると、そう思うんです。とても遠くに行ってしまう印象がある。無限大の空間ではなく、人間の身体とか上演する場所に限定はされていはいるんだけど、だからといって時間や時代に妨げられるものではなく、一旦照射したらどこまでも行ってしまう、そういう純粋な光を持っている。それがオペラであり『魔笛』ではないかと思うんです。

魔笛_舞台模型

モーツァルト、港、勅使川原――旅する芸術家たち

――世界を飛び回ってきたおふたりは、モーツァルト同様、アーティスト人生そのものが“旅”のようで、あいちトリエンナーレ2016のテーマをまさに体現なさっています。

  旅していると思いますよ(笑)。例えばアトリエという小さな空間にある時でも、勅使川原さんには“旅する身体”をずっと感じていました。勅使川原さんの作品にはマクロコスモとミクロコスモスが共存していて、宇宙観と宇宙論とが切り離されていない。どんな小さな場所のことを扱っても、常に大きな世界のことが想定されている、プロジェクション(投影)されているんですよ。そういう風に僕は感じています。それもあって天体的。以前に演出されたオペラ『ソラリス』や、『エクリプス』というダンス作品もそうでしたね。勅使川原さんは常に、モーツァルトの時代の宇宙論と通じるところがあるんじゃないですか?

勅使川原  そういう神秘的なものに実は興味があるんですよ。

  やっぱり! そうですよね?

勅使川原  物も、そう見ようと思えば見えます。写真にも感じますよ。

  あ、そうですか?

勅使川原  写真って、実物大のものはないじゃないですか。世界と同じ大きさの写真ってないでしょ?ある種、世界をフレームしている。とても興味深いですよね。

  写真は、空間の中で行われることを時間の中で行おうとする芸術だとも言えます。“永遠”ってどういうものかわからないですけど、アーティストは誰しも永遠を取扱いたいと思いますよね。写真の場合は、無限の時間を一瞬の中に閉じ込めたいというか……。写真もいろいろありますけど、僕の場合は、永遠を一瞬の中に折り込みたいという欲望は非常に強いです。

勅使川原  写真は不思議なものですよね。プリントされたものはひとつの瞬間でしかないのに、時間を感じる。じゃあ、それは何か。さっき言ったように、ミニマルなのに深さや距離感、時間性を感じるんです。でも、裏を見ちゃったら終わりなワケですよ。それは、ただの裏だから(笑)。

  タネがないという(笑)。

勅使川原  写真の裏側には興味がありますね。表を見ていると裏を感じる。裏だけ見たら紙でしかないのに、表を見ることで裏を感じるんです。そこが写真やビジュアルアーツの面白いところですよね。

  では、ダンスをする身体の裏はどうでしょうか?

勅使川原  裏は……、“背中かゆい”とか?

  (笑)。

勅使川原  少し前に公演した『静か』という作品はちょうど60分で、全く無音。音楽も効果音も一切ないんです。そうすると不思議なことに、時間が作られていく感覚があるんですよね。時間の距離とか大きさとか、今まで全く考えなかったことが浮かんできたんです。そして、その無音を作っているのは誰かといえば、観客なんです。創り手は自ら了解して音を出さないようにしているけど、観客が音を出し始めたら、もう無音じゃない。だから無音を作っているのが観客だと気づいた時、舞台上と観客席が強大な無音空間となって、大きく膨らんできたんです。でも、それは舞台だけの問題じゃない。今回のオペラの話に戻すと、観客がどう聴くか、参加するかも関係してくるんです。写真もそうだと思いますけど、鑑賞の際に向けられる視線は、作品に対して何かを発しているわけです。

  写真に見られているという感覚もありますよね。

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