芸術監督・港 千尋×演出家・勅使川原三郎プロデュースオペラ『魔笛』インタビュー

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写真家・著述家であり、あいちトリエンナーレ2016芸術監督である港千尋と、プロデュースオペラ『魔笛』の演出・振付・美術・照明・衣裳を手掛ける鬼才・勅使川原三郎が対談。日本でも人気演目の『魔笛』が、全く新しく現代に出現するための構想を語り合った。

国際芸術祭として異彩を放つプロデュースオペラの存在

――まず、おふたりの接点からうかがえますか。それぞれ多摩美術大学で教鞭を執っておられますが……。

多摩美も共通点ですが、むかし勅使川原さんと同じぐらいの時期にパリにいたことがありまして。共通の友人である写真家もいますし、僕は勅使川原さんの活動をずっと見てきたつもりです。海外での経験があるのは共通項として大きいですかね。

勅使川原  世代的に同じということなんですよね。僕は今回呼んでいただいて、嬉しい偶然を感じます。日本でオペラを演出するのが久しぶりでもあるので、そういう意味でも嬉しい。

――国際芸術祭は現代アートを取り上げるのが一般的なので、通常ではクラシックに分類されるオペラの存在によって、あいちトリエンナーレは異彩を放っています。

  2010年の第1回を拝見した時、プログラムにオペラもあると知って『変わってるな…』とは思いました(笑)。それが現場に入ってみると納得できるんですよ。音楽や美術、演劇などの要素が詰まった総合芸術ですから。しかも今回の『魔笛』は勅使川原さんが演出なさるので、他で上演されるオペラとは違った“最先端”の舞台になります。

――勅使川原さんは、ダンスではなくオペラでの参加依頼があった時どう思われましたか。

勅使川原  私の表現はダンス、美術、映像など多岐にわたるので、オペラであってもごく普通にお話をお受けしました。『魔笛』には音楽的にだけでなく興味もありましたし。オペラは複合的、総合的で、複雑な舞台表現ですが、中でも特に『魔笛』は難解で要約しがたい。形式の複雑さと音楽の魅力が一体となった内容をどう捉えるかが問題となります。

――そんなモーツァルトの『魔笛』を演目に選ばれた経緯は?

  スタッフで膝つきあわせて考えるうち、モーツァルトほど今回のトリエンナーレのテーマに合うアーティストはいないんじゃないかという話に……。モーツァルトは日本でいちばん人気のある作曲家のひとりですけれど、各国を演奏して回るため、その人生の1/3を旅で過ごしたんですよ。つまり“旅する芸術家”の代表格とも言えるんです。また、テーマの“虹”は多様性の象徴でもあり、モーツァルトのいろんなポピュラーな曲にも通じていきます。それに虹は、雨上がりに現れて人々を驚かせ、魅了する、ちょっと魔術的なところがありますよね。それも『魔笛』に通じませんか? モーツァルトという人物は『トルコ行進曲』にも象徴されるとおり、東洋と西洋の文化の出会いを感じさせます。いわゆる“クロワッサンとウインナ・コーヒー”と言うのかな。モーツァルトは多様な民族や文化と出会いながら、それらを自家薬籠中の物としてきた。だから今回のアーティスト一覧にモーツァルトの名前も入れたいほどなんです。

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“動くオペラ”の中にモーツァルトの見た光あふれる――

――『魔笛』演出のカナメは、どんなところになりますか。

勅使川原  まず私のカンパニー「KARAS」のダンサーである佐東利穂子と、東京バレエ団からダンサー16人が出演するので、身体的な舞台、“動くオペラ”になります。歌、演奏、身体をどう統合できるか。身体は、個々と群衆の両方で生かせると思っています。また『魔笛』は、歌詞とは別に語りというか台詞のやり取りが多い。つまり演劇的要素が入ってくるんです。それを踏まえ、ナレーションを取り入れる予定です。会話はとても長いので、観客を混乱させないよう、要約したものをナレーターが日本語で語るんです。オペラは、歌を聴いて情感や情景が浮かべば十分だと思うんですよね。また、エジプトの神秘的な物語を日本人が演じると滑稽なことにもなりかねない。出演者に“芝居させる”演出法ではなく、音楽を主軸にして、あくまで音楽が引き立つ舞台として成立させたいですね。歌手には“歌”として存在してほしいです。

――先ほどおっしゃった『魔笛』の難しさについて、もう少し聞かせていただけますか。

勅使川原  まず前提として、西洋文化の中にいない日本人には難しい。人物設定にもヨーロッパ人の視点を感じますし、ギリシャ文化以前の歴史性も関わってくる。それを日本人がそのまま上演すると、どこか間抜けなことになってしまうと思うんです。異文化がどう入ってくるかという葛藤に対し、日本人の芸術家が何をできるか。『魔笛』の演出にあたっては、新たなプラットフォーム、新たな理解レベルを作らなければいけません。それは難しいけれど興味深いことでもあります。『魔笛』は親しみがあると言われたりしますが、難しい作品ですよ。その難しいところが僕にとっては面白くもあるんですけどね。パパゲーノ、パパゲーナの存在とか、王子が出てきたり賢者が登場したり……。登場する様々なキャラクターに比喩が潜んでいる気がするんです。善悪の問題、人間が幸福を求めている物語と捉える考え方もありますが、もっと屈折したものとして捉えると、日本人には難しい。音楽は美しいものを持っているのに、一方で台詞のシーンが長く、なぜ音楽がないんだろうと思わされることもある。でも、音楽をつけられないぐらい複雑なことを行おうとしていたのかなと考えることもできますよね。そうやって、難しいと考えた方が楽しいんです。

  それは勅使川原理論ですね(笑)。普通の人は逆です。難しい方が「チャレンジできる」と考えますからね。そして難しいのには、何が理由あるんだろうとも……。

勅使川原  難しいことを見極めるということは何かを見いだそうとしているわけで、それを簡単なことにしてしまったら完結しているも同然。わからないことを排除しているだけです。排除しないで、どう表現に引き上げるのか、具体的にするのかが楽しいんですよ。

  もうひとつの考え方として、『魔笛』は意味が多重なんですよね。あの話を勧善懲悪で語るのは簡単なことだけれど、それではあまりにハッキリしすぎていて、そうじゃないだろうと思ってしまうんです。そうでなければ、こんなに何世紀も生き延びるわけがない。人間の複雑な面を表現しようとしたら、ああなったんだと思いますね。結果として「夜の女王」が善悪どちらなのか、そう簡単にはわからない。

勅使川原  だから台本を担当したシカネーダーも、モーツァルトの矛盾に気づきながら書いたんじゃないかと思います。どこかに矛盾があって、わからないことを延々やっている感じがするんですよね。そして、そこが面白い。モーツァルトの音楽を現代の人は大事に演奏しますけど、本当は偶然生まれたものかもしれない。そうして、ああでもないこうでもないと考えながら作っていくことは楽しいですよ。

  さらに面白いのは、今回そこに“身体”が入りますよね。言葉とも音とも違う身体が入って、ある意味を伝える。でも、その意味には観た人が解釈できる余地もあります。そこが今回全く新しいオペラになる鍵じゃないかと思いますね。また、劇中でパパゲーノのアイデンティティが変わりますよね。鳥が人間に変身したり、人間が鳥に変身したり……、そういう時代の話です。与えられた役割がひとつではなく、途中で変わる。それを観客がどう受け止めることができるのか、僕自身、期待している点ですね。

勅使川原  そういうところも、“芝居”にすると余計わかりにくくなるんですよ。演劇性は必要なんだけど、“演じる”ということではなく変えたい。なぜなら、まさに音楽はそうじゃないですか。曲の変調によって、聴いている人の感情が入れ替わってしまうような感覚を与えることが可能です。そういうことを、舞台上で視覚的に表現できたら何かが変わると思うんですよね。いずれにせよ、ヨーロッパ人がやってきたことをなぞって喜んでいても仕方がないので「なぜ、いま日本人が『魔笛』をこのように上演するのか」という意図をしっかり出さないといけません。

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  『魔笛』はモーツァルト晩年に完成した作品ですけど、最も若々しい。ある若さを感じるんですよ。その後すぐ(未完となった遺作)『レクイエム』を書くとは思えないほど。何なんでしょうかね? 飛翔とか、上昇するような感覚が全体的にありませんか?

勅使川原  若さというのは、イノセント、無邪気さですよね。年齢を重ねた人間が追憶しているのではなく、新たな何かを感じている。今までになかった、人生でいちばんと言えるほど純度の高い状態です。ある幼さというのか……、そういう意味で若さかもしれない。

  老成することが若さと矛盾していないし、むしろ老成しないと、この若さはつかみだせない感じがする。そこに単なる無邪気さではないものがありますよね。

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