大巻伸嗣 インタビュー【その②】創作の原点と展示作品「Liminal Air」について

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前回、【その①】でメイン作品《Echoes-Infinity》について語られる中で垣間見えた創作の原点。今回は大巻伸嗣というアーティストがいかに形成されたのか、その源や故郷・岐阜について、そして「闇」をテーマにした2作目の出品作《Liminal Air》について伺います。

―― そもそもアーティストになろうと思われたきっかけは何だったんでしょうか。
僕の実家が服屋だったのと、お婆ちゃんの家が箱屋で、材木がいっぱいある中でモノを作ってる環境を見てきたので、何かしら作るのが大好きだったんです。高校で進路を決める時に、一生やっていくかどうかわからなかったけど、やってみたいと思ったのが美術。と言っても、その頃は現代美術を知らなくて。欄間とか石を彫るとか、あとデザインや家具を作ったりするのをカッコイイな、可愛いなと。そういう物を作りたいと思って「河合塾美術研究所」へ入ったら、奈良(美智)先生に「彫刻やってみたら?」と言われて。彫刻なんて全くわからなかったんですけど、東京藝術大学の彫刻科に入学したんです。今じゃそこの教授になっちゃったので、奈良さんはすごい予知能力を持ってるのかなといつも思ってるんですけど(笑)。
で、藝大に岐阜出身の先輩が油絵科の4年生にいて、今はダンサーのオクダサトシ(ダンスカンパニー「コンドルズ」のメンバー)さんですけど、「ラグビー部に入れ」と言われて入部したら、いろんなところに連れて行かれて奴隷のように働かされて(笑)。そういう出会いの中で、僕が思ってた彫刻には、鉄とか木とか石といった素材を使うだけではなくて、もっと開かれた表現があるんだなぁと。手伝っていく中で、会田誠さんとか村上隆さんとか、自分たちでムーブメントを起こしていく人たちのことを遠目に見てました。
バブルが崩壊して経済的には裕福ではなかったですけど、若い先輩たちの、お金とかではない“自分たちの叫び”みたいなエネルギーを感じた時に、やっぱり現代美術をやってみたいと思った。その頃、「水戸芸術館」でジェームズ・タレルの作品を見て、なんだかわからないけど光を使って作品を作ってる人がいて、これも美術なのかと。今まで思ってた、難しくて古臭いようなものとは違う新鮮さを感じたんです。タレルの「ローデンクレーター・プロジェクト」(噴火口の土地を購入し、1979年から建設作業を続けている)とか、膨大な時間を費やして建築している……そういうことにも憧れたり、助けられたような気がして。
それで学校に評価される人間ではなくて、自分が評価し見つけだしていく、自分に対して問いを持って生きながら社会を見つめていこう、っていう風に若いながらもグダグダしながらやってきたんですね。毎回作品を作る度に、「これでもうやめてもいい」っていうぐらいの気持ちで挑もうと、そういう空間ばっかり創ってきたんです。その中で次、次とチャンスをいただいて今があるという感じで。

―― それでどれも渾身の、という感じの作品が多いわけですね。
そうですね。どれも「たぶん出来ないだろう」って言われてることばかりやってきました。今回も3つデカイ作品なので出来るかなっていう気持ちがあるんですけど、最後まで良いものになるよう頑張りたい。ギリギリまで粘るタイプなんで。

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――表現者としてその姿勢で挑んでいらっしゃるのは、とても素晴らしいことだと思います。岐阜市のご出身ということで、故郷から影響を与えられたものはありますでしょうか。
やっぱりね、岐阜市がすごいと思ったのは地形ですね。川があって山があって、平地がずっと拡がってる。そこに移動があるんですよね。移動の中に思考が働いて、ちっちゃい頃から何かあると金華山に登ったりとか、石を拾ったり木の実を拾ったり、そういうたいしたことではないけど感覚を拓いていく……「見る」「探す」とか「遊ぶ」っていうことが、どこかのテーマパークに行かなきゃ出来ない場所ではなかったので。
あとは問屋街っていう、朝から晩まで煌々と明るい場所でいろんな遊びをしてきたので、ローラースケート場に行かなくてもローラースケートをしたり、反物の上に乗ったり、何か自分たちで作ったり。そういう身体的な遊びができる空間があった。昔は雪が30cmくらい積もってたので、その雪を集めて人の家の屋根の上にテーブルと椅子を作って、そこで弟と一緒にカレーライスとポッキーを食べる(笑)。それがね、冬のすごい醍醐味なんですよね。

―― 昔の子どもは今よりずっと危険なことをしてましたけど、そういう経験は必要ですよね。
そう。屋根の上を歩いたり、ビルとビルの間を「勇気を出して飛ばなきゃダメだ!」とか言って飛んだりね(笑)。秘密の場所があって、金魚や亀が一匹だけいたり。街の表には人がガヤガヤいるけど、裏の誰も知らない場所には誰かが飼ってる生命体がいるっていう。

――そういう体験から想像力も培われますよね。今は探検するようなところも無いですものね。
区画整理がされすぎちゃって、つまんないですよ。探検して、大人には見えない世界が子どもの時には見えたんだと思うんですよね。コンピューターじゃ体験できないですしね。
本当に時代が変わってきて、どこでも持ち運んで、どこでも同じことが再生できる現代美術もいっぱいありますけど、今回僕がやろうとしているのは、どこに持ち込んでも同じことにはならないし、持ち込めない物もありますから。その場しかないし、その瞬間しか見えない作品もあるので、これはやっぱりインスタレーションというものの一番の醍醐味だと思う。今は映像とかでどんな風にもできる中で、敢えて身体を酷使して創るっていうのは面白いと思うんですけどね。

―― では、2つ目の作品《Liminal Air》について教えてください。
《Echoes-Infinity》は光に満たされた世界、《Liminal Air》は闇の中の存在で、布を使った作品です。展示する「損保ジャパン日本興亜名古屋ビル」は繊維街(長者町)の近くで、キュレーターの拝戸さんから「生地を扱ってる街にこの作品はぴったりだから、この場所でどうですか?」と言われて。
繊維街と会場のエリアには境界線があるようで無いと思うんですけど、その間をつなぐような揺らぐような、そういった意味で、布といっても波のように存在が消えたり出てきたりするような作品です。ここ数年展開してきた《Liminal Air》シリーズの最新作で、普通は黒い空間に白い布でやればすごく見えると思うんですけど、敢えて黒い空間に黒い布で、不親切な作品(笑)。だからね、美術ってなんだろう?っていう(笑)。
「綺麗」って思うだけじゃなくて、「見えないっていうのもあるの?」というのも、ひとつ作品として面白いと思っていて。真っ暗になった時、何かしら居そうな気はするし、でも何もないかもしれない。人は闇というものの中に入ってはいるけど、想像したことがあまりないと思うんですよ。光の世界で物を見る、ということに慣れ過ぎていて。

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―― 暗闇の中に置かれる状況は、現代人にとってはほとんどないでしょうね。
ですよね。だから僕にとって、現代の中で《Liminal Air》をやることによって取り戻したいものがあるんですよ。……っていうのは時間。記憶と今までの自分を振り返る時間に対して、いま自分たちが生きてる瞬間に起こってくる時間はすごい速さで流れてるような気がして。それを違った次元でスローモーションで見つめていくような、ゆったりと流れる時間や、目には見えない大きな存在を感じるような空間を作り出したいというのが、ひとつの課題でもあります。
暗闇の中で布が風によってうねっていくんですけど、その存在がうっすらと感じられる、そういう作品。それが何であるかとか、どうだとかっていうことは、それぞれ見てもらう人が考えていってもらえばいい。例えば、私たちが想像し得なかった“自然”という見えない存在かもしれないし、日本人的な発想かもしれないけど、八百万の神様だとか、あらゆるものに神を見てきた日本人の中にある、もうひとつの見えない存在というか。そういう風に捉えてもらってもいいんです。

―― 完全に真っ暗闇な空間に?
真っ暗ですけど、ちょっと光ると思います。でも最初は見えないかもしれない。そこの調整は初めての作品なんで、どうやったらうっすらと光らせられるんだろう、みたいな。人間が知覚できる光って、例えば夏に外から中へパッと入った瞬間、室内が結構明るくても見えなかったりするんですよ。最初からコントラストがある中でうっすらと光ってたら、本当に見えるのかな?と。

―― 限界に挑戦、ですね。
そうなんです。最上級のサービスというのは、そういうことだと思っていて。トリエンナーレとかビエンナーレとか、そういう極上の危険ギリギリのところでサービスを受けられるっていうのがやっぱり美術の面白さだし、アトラクションとして安全を確保するための状況にしてしまうと、本当に無意味なものになってしまう。
人が自然の中で認知できないことをもう一回取り戻す、そのリハビリのようなことかもしれないんですけど。無いからこそ自分たちで感じられるような空間を作って、それを感じていく自分たちの中に潜んでいる本能を引き上げていくような、そういう想いはあります。

―― 鑑賞者の方は、「見る」だけなんでしょうか。 触ったりは?
触れません。見るんだけど、見えるかなぁという感じですね(笑)。だからよくおじちゃんが、「心の綺麗な人は見えますよ」って言う、ああいうような感じでいいのかなと。何も言わないでおくと勝手に違う物が見える人がいて、「あそこにああいうのがあったよ」って言ってて実は違ったら、「この人は違う物を見てたんだな」と思って面白いかなと(笑)。

――そんなの置いてないのに、って(笑)。すごく面白いですね。
その人に対する問いでもあるし、そういうものを受け入れてじっと見つめる時間って、本当に豊かな時間だと思うんですよね。自分の生活を見ていてもそういうのが無い状態なので、自分のためだったりもするんですけど。その人その人でまた、未来なのか過去なのか、そのアンニュイな振幅するような存在として「闇」っていうのを見つめてもらおうかなと思ってます。

―― 見るたびに違って見えたりするかもしれませんし、見終わったあとに話すことがたくさんありそうですね。
空間がね、だんだん赤くなっていったりとか変化するんですよね。最初は光が立ってくるので、光が全体に満たされていく感じで。見えないですよ、実際は。見えないけど感じてるんですよ、この皮膚で。色を皮膚で感じる…そういう知覚の解放っていうか。「闇」というものを感じる時、皮膚の表ではなく裏側で感じてるような気がするんですよ。知覚っていうものは反転する可能性があると。闇って怖いじゃないですか、圧迫される感じがあるから。「光」ってここ(皮膚の表面)でピリピリ感じるんですよ、今でも太陽に当てれば。でも「闇」は、僕がいつも想像するのは皮膚の内側、例えば、着ているカーディガンの裏側に自分の触覚があるような感覚にならないですか?

―― わかる気がします。
わかりますよね。「闇」は、内側から感じてるんですよ。つまり、自分の中に「光」があるから、それを外に出して開放する。僕はそういう触覚というか知覚があるんじゃないかなと思ってるんです。

【その③】豊橋会場 展示作品《重力と恩寵》について、に続きます。近日公開予定。

INTERVIEW:望月勝美  PHOTO:ヤオタケシ

 

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