8月11日(日)、オープニングシンポジウム「カタストロフという機会--The Opportunity of Catastrophe」を開催しました。「カタストロフに遭遇した後、アートに何ができるか?」という、五十嵐太郎芸術監督による問いかけは、東日本大震災後、国内外で議論されてきました。このシンポジウムでは、「カタストロフ=東日本大震災」という図式にはとらわれず、突然の危機的状況や想像を遥かに超える物質的・心理的な「崩壊」「揺らぎ」が我々に与える「機会」とはなにかをテーマに、プレゼンテーションとトークが行われました。自身も被災した五十嵐氏は、震災後の体験を振り返りながら、1年後に企画した建築の展覧会「3.11-東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか」から、あいちトリエンナーレに至る経緯も含め、東日本大震災というカタストロフが彼に与えた機会を語りました。脳裏に焼きついた女川町の光景を直感的に「記憶に残すこと」への使命感へとつながったという話から、トリエンナーレのテーマがより身近に感じられたという声がありました。
参加アーティストの宮本佳明氏からは、阪神・淡路大震災の際に制作された「ゼンカイハウス」に遡って建築家としての震災へのレスポンスやその意味、そして「福島第一原発神社」のアイデアを一番初めに伝えたのが五十嵐氏であり、それが原寸大で原発を体感させる今回の作品の後押しとなったことが話されました。宮本氏の「もしもここが原発だったら?」という問いは、カタストロフな現実を自分のこととして考える機会となったことでしょう。
続いて、パフォーミングアーツ統括プロデューサーの小崎哲哉氏は、フランスの劇作家サミュエル・ベケットの演劇や詩に一貫する不条理性や「生と死」「人間とはなにか?生きるとはなにか?」という問いに今回のトリエンナーレのコンセプトを読み解く鍵があると考え、パフォーミングアーツのプログラム編成の主軸にベケットを取り上げたことを語りました。
参加アーティストのアルフレッド・ジャー氏は、作品づくりの過程、情報収集の大切さ、アートの限界と可能性、「記録」に存在する「記憶」の表現、そしてなぜ、あえて、カタストロフをコンテクスト・テーマとして作品をつくり続けるかについて語りました。
最後にキュレーターのルイス・ビックス氏は、「国際展」だからこそ世界で起こるカタストロフを語る場、知る場にすべきと提案。そしてアーティストの役割は、「感情と気持ちに形を与えること、それに価値を与えること」とする一方、キュレーターの役割は、「アートにコンテクスト・意味を与えること。アートを見せる場所・環境与えること、そして今ある既存のアートに新しい命、コンテクスト、意味を吹き込むこと」と説明しました。
プレゼンテーション後のトークセッションでは、「カタストロフという機会」の意味をどう考えるかについて意見交換がされました。なかでも、小崎氏からの「惨事が起こった時、その人や団体の能力が問われるが、明らかにする態度が重要。それがカタストロフという機会」という意見や、アルフレッド・ジャー氏の「『危機』という中国の言い回しが思い浮かぶが、市民にとっても政府にとっても創造性をもって何かをするいい機会」という言葉が印象に残りました。
2時間ですべてを語る事はできませんでしたが、未来の人々に「カタストロフ」を伝えるためには、今を犠牲にしても、時間や記憶を凍結させアートや建築が「なにか」を残すことが重要であること、そしてアーティストや建築家だけでなく、現場をつくる人々や鑑賞者がそれぞれの役割を担う事で、アートがカタストロフを「機会」に変えられるのだということを感じました。
シンポジウムの様子は下記URLからもご覧いただけます。
http://www.ustream.tv/recorded/37147687
(あいちトリエンナーレ2013コミュニティ・デザイナー 菊池宏子)